首里城の歴史と復興への道のり:沖縄のシンボルが再び輝きを放つ

首里城

はじめに

 昔から沖縄のシンボルとして愛される『首里城』。沖縄県民や、世界中の多くの人々の心を惹きつけ、琉球王国の歴史と文化を物語ってきました。しかし、2019年の火災によりそのほとんどが失われてしまいました。実際に私もその光景を遠くから見ていましたのですごく胸が苦しくなりながら見ていたのを今でも覚えています。この日悲劇は、沖縄のみならず、日本全国に大きな衝撃を与えました。

今回は、そんな首里城の歴史、火災後の復興への取り組み、そして今実際に行われている再建までの道のりを詳しく解説していき、また昔のような色鮮やかな沖縄のシンボル『首里城』に戻るまでにたくさんの方に首里城のことを知ってもらえたらと思います。

首里城

首里城の歴史

 首里城は、14世紀頃に築城され、琉球王国尚巴志が統一したあとに本拠とされると政治や文化の中心地となりました。琉球王国は、中国や日本との交易を行い、独自の文化を育んできました。首里城は、その文化の象徴であり、琉球王国の王が政治を行い、儀式を行った場所です。

  • 琉球王国の栄華: 琉球王国は、東アジアの海上交易の中継地として栄え、首里城は国際的な都市としての役割も担っていました。
  • 多様な文化の融合: 首里城の建築様式は、中国や日本の影響を受けながらも、独自の琉球文化を反映しています。

何度も焼失し再建されて蘇る

 首里城について、1945年の沖縄戦や最近あった2019年の火災による全焼はニュースや本などでもたくさん取り上げられてきましたので皆さんも知っていると思います。しかし、首里城は実は5回焼失してしまい、その度に職人の技術やたくさんの方の支援を受けて、何度も再建されてきた歴史もあります。

  • 1453年:王位継承を争う「志魯・布里の乱」により、焼失。1回目の焼失。そこから再建されたものの、首里城は1609年に島津氏による侵攻を受け、琉球王国は薩摩藩の支配下に入ります。
  • 1660年1709年:失火により首里城焼失。2回目、3回目の焼失。一時的に王宮は大美御殿に移されます。1671年、1712年と全焼した宮殿はそれぞれ再建が行われました。
  • 1878年:琉球の処分により、琉球王国は廃止され、琉球王国は今の『沖縄県』となります。
  • 1945年:沖縄県を中心とした沖縄戦で米軍の激しい攻撃を受け、首里城は再び焼失してしまいます。4回目の焼失。この沖縄戦は約3か月続き、その三か月間で軍人、一般人合わせて約20万人がこの沖縄で命を落とす日本国内で最も激しい地上戦となってしまいました。
  • 1958年:守礼門の復元を皮切りに、周辺の建物も徐々に復元が始まり、1972年に沖縄が日本復帰後、国の史跡に指定されて、沖縄県の本格的な復元が始まっていきます。
  • 1992年:沖縄戦で焼失した首里城の正殿など主要な建物の復元が完了し、首里城が再建され、一般への公開が始まります。
  • 2019年10月31日:未明に発生した火災により、正殿をはじめ9つの建物が焼失する悲劇に見舞われました。5回目の焼失。
  • 2020年:沖縄県民をはじめ、日本全国からの支援が集まり、首里城復元に向けた動きがかっはつかしていきます。
  • 2023年:首里城正殿復旧に使用される木材加工が始まり、513本の木材と述べ6000人の作業員により、正殿の骨組みが完成される。また、建設中の正殿を見学できるエリアが設けられ、日々進められる正殿復元工事が見学できるようになる。
  • 2024年:屋根回りの組立が完了し、沖縄で作られた赤瓦の瓦葺きが始まる。使用する瓦の材料の中にはシャモット(焼失した正殿の瓦を砕いて制作した)も含まれており、正殿の屋根には約6万枚もの赤瓦が使用されます。
  • 2025年:素屋根(正殿復元時に使用された屋根)が解体され、彩色・塗装作業が始まります。正殿内の設備や外構の工事が行われ、2026年の完成に向けて、復元作業が進められています。

2019年の火災とその後

 2019年10月31日未明、首里城に火災が発生し約11時間にわたり燃え続け、正殿をはじめとする多くの建物が焼失しました。首里城が燃えている。ニュースを見ても信じられなく、朝方仕事に向かう道中、高速道路から那覇方面で赤く燃え、真っ黒い煙をあげている光景を、最初はまだ夢の中なのかと思い受け入れることができなかったのを思い出します。首里城のこの火災は、沖縄県民のみならず、日本中に大きな衝撃を与えました。

  • 火災の原因: 火災の原因は、時間帯が深夜であったこともあり、防犯カメラでも暗く不鮮明で当時の火の勢いもわかりにくい状況もあり、警察・消防による調査が行われましたが、火災原因の特定には至っていません。ですが消化設備の不足や構造上の問題もあり、鎮火までに時間がかかってしまったことが9施設の焼失の主な原因といえると思います。
  • 復興への動き: 火災直後から、首里城の再建に向けた動きが活発化しました。政府は、2019年12月11日には「首里城復元に向けた基本的な方針」を立て、首里城の早期復元を目指し、沖縄県や関係機関と連携して復興への動きを進めていきます。
  • 国民の支援: 首里城復興に向けた募金活動も多く行われ、『首里城復興基金/首里城火災復旧復興支援寄附金』(令和元年11月~令和4年3月まで¥5,541,420,099)『首里城未来基金/首里城歴史文化継承寄附金』(令和4年4月~令和6年11月末で¥582,021,056※現在も受付中)と、全国から多くの支援が集まり、復興への支援が今も行われています。                  ※沖縄県HPより  
焼け落ちた首里城

復興への取り組み

 首里城の復興にはいくつもの問題があり、建物の復元では職人の確保や木材の調達、復元作業に必要な作業スペースや道路の確保、火災発生に対しての防水設備の対策などがあります。また、単なる建物の復元にはとどまらず、琉球王国の歴史と文化を後世に伝えるという大きな使命を担っています。

徹底的な工場調査

  • 火災前の調査データや写真などを基に、建物の構造や装飾を詳細に調査しています。焼失前の赤瓦や建物の構造など、再建にとても必要な工程です。

伝統的な技術の継承

  • 復旧に必要な材料の不足:正殿の復元に欠かせない木材・石材・瓦の入手が極めて困難であった。現在伐採禁止になっている樹木や県内では出回っていない石材など、代用材として国内・外材を含め検証する必要がありました。
  • 伝統技術の職人不足:首里城の復興には、多くの伝統技術が必要とされ、焼失前の状態への復元には木彫刻師、石彫刻師、瓦や龍頭棟飾の手作り職人が不足していた。沖縄人のベテラン職人を筆頭に、県外からの職人さんや若者達の協力もあり、伝統的な技術を若い世代の人々に受け継ぎながら復元作業が行われています。
  • 最新の技術の活用: 焼失前にはなかった新しいデジタル技術を活用し、今しか見られない首里城復元作業の様子を映像データを加工したVRの一般公開や、3Dスキャニングなどの最新の技術を活用し、精度の高い復元を目指して取り組まれています。
首里城復元作業の風景

まとめ

 首里城の復興は、沖縄県民や国民だけでなく、さまざまな国の方々の熱意と協力があり、今も関係者の方々の手によって進められています。再び、あの美しい沖縄独特な赤瓦や漆塗りの赤壁を見せてくれるでしょう。この復元への取り組みが、普段では見られない首里城内部の建築工程や、職人の伝統的な建築技術を見られる場となり、また、若い世代への技術継承の場となって、沖縄の文化や歴史を未来へと繋げるための重要な取り組みになっています。私たちも、この復興を未来の世代に引き継いでいけるように、応援していきましょう。

首里の石畳
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この記事を書いた人

沖縄生まれ、沖縄育ちの1児パパです。🌴地元沖縄の観光地おすすめスポットやおすすめの飲食店などを、ここ沖縄から発信していきます。😊

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